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東京高等裁判所 昭和60年(ネ)1270号 判決

控訴人 本間小枝子

被控訴人 本間保正

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

事実

一  控訴代理人は「一.原判決中第一ないし第四項を次のとおり変更する。1 控訴人の請求に基づき、控訴人と被控訴人とを離婚する。2 控訴人・被控訴人間の長女由美子(昭和48年12月3日生)、二女圭子(昭和50年6月15日生)、長男良祐(昭和53年4月6日生)の親権者をいずれも控訴人と定める。3 被控訴人は控訴人に対し金1、200万円を支払え。4 被控訴人の請求を棄却する。二.訴訟費用は本訴・反訴を通じ第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決並びに控訴の趣旨一.3中金200万円の支払につき仮執行の宣言を求め、被控訴代理人は主文第一、二項と同旨の判決を求めた。

二  当事者双方の主張並びに証拠の関係は、次のとおり、加除訂正するほかは原判決の事実摘示並びに本件記録中の原審における書証目録及び証人等目録の記載と同一であるから、これをここに引用する。

1  原判決6枚目表7行目「その頃から」を「同年6月下旬ころから」に改める。

2  同7枚目表3行目「婚姻生活は、」の次に「(1)」を加え、4行目「被告の態度」の次に「、(2) 被控訴人は昭和54年6月下旬ころから控訴人に生活費を渡さず、暴行やいやがらせをしたこと、(3) 被控訴人は控訴人の両親に対して反感を持ち攻撃して不和を生じたこと等」を加え、同7枚目裏8行目及び10行目の「金400万円」を「金200万円」に改める。

3  同8枚目表5行目から6行目にかけての「金400万円」を「金100万円」に、裏6行目の「金800万円」を「金700万円」に改め、7行目の次に行を改めて「また控訴人の離婚後の扶養として金200万円の財産分与を求める。」を加え、8行目から9行目にかけての「金1200万円」を「金1000万円」に改める。

4  同9枚目表4行目「入院したこと」の次に「及び控訴人の母親が○○まで手伝いにきたこと」を、同裏11行目の次に行を改めて「11 事実関係は反訴請求原因事実のとおりである。」を加える。

5  同12枚目裏4行目「昭和54年5月初旬」を「昭和55年5月初旬」に改める。

6  同14枚目表5行目「病気のことは認め、」を「病気のこと及び控訴人が子どもらを伴つて昭和53年12月15日ころから昭和54年2月25日ころまで実家に帰つていたことは認めるが、」と改め、同6行目「否認する。」の次に「控訴人が子どもらを連れて実家に帰つたのは、寒冷の地に病弱な子どもを置いておくと病気が高じるので、これを避けるため止むなくその旨を被控訴人に告げ了解を得た上でなしたものである。」を、同7行目「同4の事実中、」の次に「控訴人が昭和54年2月26日ころ、子どもらと共に被控訴人のもとに帰つたこと、」を加え、同11行目「は認めるが、その余の事実は否認する。」を「及び控訴人が昭和54年7月20日ころから同年9月9日ころまで子どもらと共に実家と被控訴人の家を往き来して生活していたこと及び同年9月15日ころ以降今日まで被控訴人のもとに戻ることがなかつたことは認めるが、その余の事実は否認する。」と改め、その次に行を改め「控訴人が子どもらと共に実家で暮すようになつた事情は次のとおりである。すなわち、被控訴人は同年6月下旬以降控訴人に生活費を渡さないようになり、控訴人や子どもらは生活して行けなくなつたので、同年7月20日ころから同年9月9日ころまで、半分は被控訴人の家で暮し、残り半分は実家で両親と共に暮してその扶養を受けていたが、同年9月10日ころ控訴人が被控訴人に対し生活費を渡してくれるよう要求したところ、同人はこれに応ぜず、かえつて暴行を加えたので、控訴人は止むなく実家に難を避けその庇護の下に生活しているもので、その理由は被控訴人にも告げてあり、別居の原因は被控訴人の右行為にあり、控訴人に非難されるべき点はない。」を加え、同14枚目裏3行目及び6行目の「否認する。」をいずれも「争う。」に改め、同7行目「8同9の事実は否認する。」を「8同9の事実中、被控訴人が控訴人の実家に時々電話を掛けてきたこと及び控訴人が被控訴人に対し病弱な体を治すよう申しでたことは認めるが、被控訴人と控訴人の実父との交渉の経緯は不知、その余の事実は否認する。」に改め、同10行目の次に行を改めて「11事実関係は本訴請求原因事実のとおりである。」を加える。

理由

一  控訴人と被控訴人との婚姻生活の事実関係についての当裁判所の認定判断は、次に付加訂正するもののほかは、原判決摘示の理由一と同一であるから、これをここに引用する。

1  原判決16枚目表4行目から5行目にかけ「これによつて」を「原審における控訴人本人尋問の結果によつて」と改め、同5行目「甲第4号証、」の次に「原審における被控訴人本人尋問の結果によつて真正に成立したものと認められる」を加える。

2  同18枚目表7行目「不信」を「不審」に、同22枚目表3行目「10月」を「10月分」に改め、同23枚目裏7行目「原告は、」から同9行目「証拠はない。」までを削除する。

二  次に、控訴人及び被控訴人の各離婚請求の当否、両名間の子の親権者の指定、控訴人の慰藉料請求の当否についての当裁判所の判断は、次に付加訂正するもののほかは、原判決摘示の理由二及び三と同一であるから、これをここに引用する。

1  原判決24枚目表8行目「本件婚姻関係は、」の次に「前記夫婦関係調整の調停が不調に終つた昭和56年10月当時において」を加える。

2  同表10行目「しかして、」から同裏5行目「言わざるを得ない。」までを次のとおり改める。

「そこで、右破綻に至つた原因について考察するに、その主たる原因は、子どもらの父として、また控訴人の夫としての被控訴人の立場を無視し、侮蔑した控訴人の言動にあるものというべきである。すなわち、前記認定の事実によれば、控訴人は、被控訴人に相談することもなく、突然子どもらを伴つて控訴人の実家に赴きそこに滞在することが再三にわたり、この間被控訴人から連絡があつても、門前払いを食わすなど同人が控訴人や子どもらと会うことを極力拒否する態度をとり、子どもらの状況や長女の就学先を教えないなど子どもらの教育監護について被控訴人の容喙を許さない態度をとりつづけ、遂には、被控訴人の職場で奇矯な言動をするに至つたものである。

ところで、控訴人は、右破綻に至つた原因は、被控訴人の健康と言動にある旨主張するが、その主張事実については、前記認定の事実を除いては、これを認めることはできない。すなわち、甲第2号証、甲第4号証の各記載、原審における控訴人本人の供述の中には、その主張事実(前記認定の事実を除く)に副う部分があるが、これは、前記認定の事実及び前顕乙第6号証、原審における被控訴人本人尋問の結果に照らしてにわかに信用することができない。したがつて、控訴人が破綻原因として主張する(1)(性的無能力等)及び(8)(控訴人の両親に対する攻撃等)については、これを認めるに足りる証拠がないといわざるをえない。そこで、(2)(生活費を渡さないこと等)について検討するに、前記の認定事実によれば、被控訴人は、(一)昭和54年9月分まではその給与のほぼ全額を控訴人に交付していたのであるが、(二)同年10月分から昭和56年4月分までは控訴人に対し生活費等婚姻費用を全く分担せず、(三)同年5月分から同年10月分(本件婚姻関係が破綻するに至つた時期)までは、控訴人が被控訴人の勤務先に赴くことにより、おおむね給与及び賞与の2分の1を控訴人に交付していたところ、右(二)及び(三)の被控訴人の態度は未成年の子3名を養育監護し婚姻関係を保持すべき夫として責むべき点はあるものの、その原因は、前叙認定のとおり、控訴人が被控訴人に無断で子どもらを伴つて控訴人の実家に帰り、被控訴人からしばしば連絡を求めてもこれを拒否する態度をとりつづけ、子どもらの状況や長女の就学先を教えなかつたこと及び控訴人と子どもらの居住先は控訴人の実家であり、また控訴人の手もとには相当多額の金銭があつたと思われたこと等によるものであつて、被控訴人が右のような態度に出るに至つたことについて控訴人は自らこれを招いたものであり、また、その多くの責任を負担すべきものといわざるをえない。また、前記の認定事実一5によれば、被控訴人は控訴人に対し暴力を振つたことはあるが、その原因はそこに認定したとおりの事情であり、これについてもその大半の責任は控訴人に帰せられるべきものである。以上説示したとおりであるから、本件婚姻関係の破綻について、被控訴人にもその責任はあるが、その主たる責任は控訴人にあるというべきである。」

3  同25枚目表10行目「認定したとおりである」を「認定したとおりであり、被控訴人も破綻についての責任の一端を負うべきものではあるが、その責任の程度は前叙のとおりであつて、慰藉料をもつて償わなければならない程のものとはいえないのである」と、同11行目「棄却されるべきであるが、」を「棄却されるべきである。」と改め、以下同行目「原告は」から26枚目表2行目末尾までを削除する。

三  続いて、控訴人の財産分与の申立てについて判断する。

1  控訴人は、財産分与の内容を(一)控訴人、被控訴人夫婦の実質上の共同財産の分配、(二)控訴人が昭和54年6月末ころから昭和57年9月末ころまでの間に過当に負担した婚姻費用の清算、(三)離婚後における控訴人の扶養の三種に分けて主張しているので、これらについて順次判断する。

2  まず、(一)について審究するに、夫婦の実質上の共同財産としては、前記認定のとおり、被控訴人は、かねて預金等合計約110万円を有していたが、その後控訴人の生活費に費消されて残高はかなり減少しており、その他にみるべき資産はない。もつとも、前顕甲第3号証、乙第4号証に原審における被控訴人本人尋問の結果を総合すれば、被控訴人は毎月1万円余の共済組合長期掛金を負担し、かつ、本件婚姻前である昭和46年ころから毎月生命保険料を支払つて来ていることが認められるが、これらは、将来被控訴人に退職又は死亡等の事情が生じ、その事情いかんによつて被控訴人が一定の給付を得られるか否かが定まるものであつて、このような不確定的要素の多いものをもつて夫婦の現存共同財産とすることはできないのである。

3  次に、(二)について審究するに、原審における控訴人本人尋問の結果によつて真正に成立したものと認められる甲第2号証、前顕甲第4号証及び右本人尋問の結果を総合すれば、控訴人はその主張の39か月間に、控訴人及び子どもらの生活費等に約1200万円を支出したことが認められ、これによれば、控訴人は月平均30万7000円の生活費等を支出したものというべきである。ところで、被控訴人の昭和54年10月から昭和56年4月までの手取収入は月平均約24万7000円であることは前記認定のとおりであり、これを彼此対比するときは、控訴人の右支出額は異常に高額であり、これを基準として、婚姻費用の分担額を定めることはできない。そして、前記認定のとおり、被控訴人は、昭和54年9月分まではその給与のほぼ全額を控訴人に交付していたのであるから、被控訴人において清算すべき分担額はなく、同年10月分以降の婚姻費用分担額が定められるべきところ、昭和56年5月1日から昭和57年9月末日までの被控訴人の手取収入はこれを認めるに足る証拠がないので、この期間も含めて、前記昭和54年10月から昭和56年4月までの手取収入平均月額を基準として、昭和54年10月1日から昭和57年9月末日までの被控訴人の婚姻費用分担額をいわゆる労研方式によつて算出すると(父125、母80、長女55、次女45、長男45の指数とする)、約571万円になるが、前顕甲第2号証によれば、控訴人は昭和56年5月1日ころから昭和57年9月末日までの間に被控訴人から金276万円を取得していることが認められるので、これを控除するときは、被控訴人が清算すべき分担額は約295万円となる。

4  次に、(三)について審究するに、前示のとおり、控訴人は、同人と子どもらのために、被控訴人の手取収入の約125%にのぼる生活費を支出して、控訴人の実家で豊かな経済状態のもとに生活を営んで来ているものであつて、当面の生活に困窮するとはいえず、控訴人及び子どもらの扶養を必要とする事態が生じた場合には、扶養義務者に対してその義務の履行を求めれば足りるのであり、みるべき資産を有しない被控訴人に対し、離婚に伴う財産分与として、離婚後の扶養を求めることのできる事実関係は控訴人の提出援用する全立証をもつてしても肯認することはできない。

5  以上認定判断したところ、その他本件にあらわれた諸般の事情を考慮するときは、被控訴人が控訴人に対し離婚に伴う財産分与として分与すべき額は金350万円とするのが相当である。

四  そうすると控訴人の本訴離婚請求及び慰藉料請求は理由がないのでいずれもこれを棄却し、被控訴人の反訴離婚請求は正当であるのでこれを認容し、控訴人と被控訴人間の子どもらの親権者をいずれも控訴人と定めるのを相当とし、財産分与の申立てについては被控訴人が控訴人に対し金350万円を支払うのを相当と認めるので、これと同旨にでた原判決は正当であつて、本件控訴はいずれも理由がないから、民訴法384条によりこれを棄却することとし、控訴費用の負担につき同法95条、89条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 柳川俊一 裁判官 近藤浩武 三宅純一)

〔参照〕原審(東京地 昭56(タ)495号、58(タ)303号 昭60.4.26判決)

主文

一 反訴原告(被告)と反訴被告(原告)とを離婚する。

二 反訴原・被告間の長女由美子(昭和48年12月3日生)、二女圭子(昭和50年6月15日生)、長男良祐(昭和53年4月6日生)の親権者をいずれも反訴被告(原告)と定める。

三 被告(反訴原告)は原告(反訴被告)に対し、金350万円を支払え。

四 原告(反訴被告)の離婚請求及び慰藉料請求をいずれも棄却する。

五 反訴原告(被告)のその余の請求を棄却する。

六 訴訟費用は本訴反訴を通じこれを10分し、その7を原告(反訴被告)の負担とし、その余を被告(反訴原告)の負担とする。

事実〔略〕

理由

一 その方式及び趣旨により公務員が職務上作成したものと認められるから真正な公文書と推定すべき甲第1号証、原・被告各本人尋問の結果(後記採用しない部分を除く)及びこれによつて真正に成立したものと認められる甲第4号証、乙第5、6号証、弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる甲第3号証、乙第1ないし第4号証、並びに弁論の全趣旨を総合すれば、次の事実が認められる。

1 原告は、昭和45年3月、○○女子大学を卒業し、同年4月○○庁に勤務したが、その頃既に○○大学法学部を卒業し、○○庁に勤務していた被告と知り合い、昭和47年5月被告と婚約して右○○庁を退職し、同年9月23日被告と婚姻する旨の届出を了した。

原・被告は、結婚後、住居を東京都○○○市の○○○公務員住宅に定め、原告は専業主婦として、被告は○○庁に勤務し、昭和52年6月中旬まで同所において共同生活を営み、この間昭和48年12月3日長女由美子が、昭和50年6月15日二女圭子がそれぞれ出生した。

2 昭和52年6月中旬、被告が○○県教育委員会に転出したのを契機に、被告ら家族は、○○市にある県職員宿舎○○住宅に転居した。その後、昭和53年4月6日長男良祐が出生した。

このころまで、原・被告間の婚姻生活は、特別変わつたこともなく平穏に推移していた。

また、前記子らも時に風邪を引くようなこともあつたが特段健康に異常はなく、被告は、子らの健康について意をはらう必要もなかつた。ただ長女は5歳ころまで夜尿のくせが治らなかつたようである。しかし、原告は、前記子らの健康に異常はないものの、これをいたく心配するようなところがあり、また、子らに対して自然食や漢方を常用し、これらに強く依存する傾向があつた。

3 昭和53年11月下旬、原告の実母大川正子が○○の原告ら方を訪問した。その際、正子は、長女の由美子の尿が濁つているとか糖尿病ではないかとかいろいろ心配し、長女が外で遊ぶのを止めさせようとしたりするので、被告は、原告及び右正子とともに子どもらを○○大学付属病院に連れて行つたが、医師は何ら心配はいらない旨診断した。しかし、原告や正子は、それでも納得できないように医師や看護婦に採取した尿を見せたり、クロレラ、梅肉エキス等の自然食を常用させていると言つたり長女の状況を説明し、糖尿病ではないかなどと述べていた。

そして、同年12月初旬、原告は、新聞のチラシの裏に自分が東京の歯科医に通院するので実家に帰る旨の書き置きを残して、前記子どもら3人を連れて、正子ととに実家に帰つてしまつた。

被告は、その後原告の実家に電話し、原告と連絡をとろうと何度か試みたがいずれも原告の母が応待に出て、原告や子どもらに取り次ごうとはしなかつた。また、週末には原告や子どもらに会いに行こうとしたが、被告が上野駅から電話すると原告は、来なくてもよいとか○○の被告の実家に行つてくれなどと言い、被告は、これを不信に思いながらも原告の言うとおりにしていた。3、4回そのようなことが重なつたので被告は、子どもらにクリスマスプレゼントを持つて直接原告の実家に出向いたが、インターホンでプレゼントを門の前に置いて帰つてくれなどと言われる始末であつた。翌昭和54年1月2日ようやく被告は、原告の実家で原告や子どもらに会うことができ、同所に一泊した。

その後しばらく原告と子どもは、原告の実家で生活していたが、昭和54年2月26日、原告の実父に連れられ、○○の被告のもとに帰つてきた。その際、原告の実父は、被告が原告の実母をないがしろにしたなどと言つて、被告を非難するようなことがあつたが、被告は全く見当違いである旨説明し、ようやく納得を得たようであつたが、双方に気まずい思いが残つた。

また、被告は、このように、原告が子どもを連れて実家に帰つてしまつたのは何故なのか原告に問いただしたが原告はこれに答えず、そのため、被告は今もつてその理由をつかみかねている。これに対して、原告は、年末年始は一般の病院は休みであり、その間、東京のよい漢方医に診てもらうべく実家に帰り、この間長女をこれら漢方医などに診てもらつていた旨供述するのみである。

4 その後しばらくの間は原・被告の生活は表面的には平穏であつたが、原告は子どもらのことについて被告と相談することもなくなり、○○に戻つて間もなく、長女が病気だなどと言つて、被告に相談することもなく幼稚園を退園させたり、それまでやつていたバイオリンの塾をも辞めさせたりした。

5 昭和54年6月中旬、被告は、○○○○○局に出向することとなり、家族共々上京し、原告と相談して決めた現在被告の居住する○○○区にある公務員宿舎○○○住宅に転居した。

○○○区に転居後、被告は、前記子らを被告の実家に連れて行くこともあつたが、原告は、これに不満を持ち、子どもらが被告の実家にとられてしまうなどと言うことがあつた。

同年7月10日ころ、被告は、前記子らをプールに連れて行き、帰りに被告の実家によつて夜9時過ぎ帰宅したが、原告は、施錠して被告らを家の中に入れようとせず、ようやくベランダを乗り越えて中に入ると原告は、被告に対して物を投げつけたりし、それが子どもに当るようなこともあつたので、被告は原告を平手打ちしたり、両手首をとらえて床に押えつけたりして、原告の興奮を静めた。

6 その後、原告は、被告に無断で子どもを連れ出し、原告の実家に帰ることが多くなり、昭和54年9月中旬、子どもらを連れて原告の実家に帰つたまま遂に今日まで被告のもとに戻らなくなつた。

7 同年11月ころ、被告が、住民票を取り寄せてみると、同年10月20日ころ、原告が勝手に原告及び3人の子どもらの住所を○○市に移していることが判明し、更に長女由美子の転出先が被告には全く見ず知らずの田辺某宅となつていた。そこで、被告は田辺某と連絡をとつたところ、子どもは預つていないこと、寄留は、原告の実母に頼まれ、引き受けたものであることが判明した。更に、被告は、長女の入学先が原告の実母が停年まで教諭として勤務していた○○市○○小学校であることもわかつたので同校とも連絡し、同校に事情を説明したりした。

8 原告が実家に帰つたまま戻らなくなつた同年9月以後、被告は、原告の真意をはかりかね、被告の父や義弟を通じ、あるいは原告の実兄、実妹らと連絡をとり、状況把握に努めたが要領を得ず、昭和55年4月ころ、被告のもとに、原告は被告のもとにすぐに帰るつもりはないこと、長女の病気のことが心配であることなどが伝えられたほか、原告らの状況は全く不明であつた。そこで、同年5月初旬、長女の就学状況を知るため、自ら○○市に出向き、市教育委員会の学務課長や前記○○小学校の校長に面会し、長女の状況を聞いてみたが、長女は同校に就学していないことが判明した。以後今日に至るも原告は子どもらの就学先を教えようとはせず、被告には全く不明のままである。

その後も、被告は、原告の実家に再三電話をかけ、その真意並びに状況を知ろうと努力した。しかし、原告と会話できたのは同年8月5日のみであり、その際原告は一方的に被告に対し病気を治せなどと要領の得ない主張をするだけであつた。

9 被告は、同年10月下旬ころ、東京家庭裁判所に夫婦関係調整の調停を申し立て、夫婦の同居を求めたが、原告は、被告に対し同居にあたつて、被告が病気を治すことが先決であるなどと主張したため、昭和56年10月不調に終わつた。

なお、原告は、被告が病気ないしは疲れやすい体質である旨主張するが、被告の健康診断等によつてもことさら問題とされるような所見は見出せない。

10 ところで、被告は、婚姻以来被告の給与及び賞与はその都度これを殆ど全額原告に交付し、その管理を任せてきたが、原告が実家に帰つた後の昭和54年10月から昭和56年4月分までは、原告に対し全く生活費等婚姻費用を分担しなかつた。この間の原告及び子らの生活費等は原告の両親の援助でまかなつた。被告としては、原告が実家に帰つて今日まで別居を継続するようになるとは思つてもいなかつたこと、被告らが○○から転勤するに当つて貰つたせん別約50万円と昭和54年6月の賞与を原告が持つていたこと、更に、それまで原告が被告に渡した給与等を管理し、預金もあつたのではないかと思われたことなどから生活費を送らなかつたものであるが、このことが原告をして被告に対する反感を増大させたことは否定できない。

しかるところ、昭和56年5月に至つて、原告は、突然被告の俸給支給日に被告の勤務先に生活費を取りに来て、被告がこれを渡すまで職場に居すわるようになり、原告の希望額が渡されないかぎり、その場を動かなかつたり、大声で生活費を寄こせと言つたりするようになつた。原告がこのように被告が職場に生活費を取りに来るのは、その時以来今日まで毎月間断なく続いている。

なお、前記調停において、被告は、原告のかような行為を差し控えてもらうため、昭和54年10月から昭和56年4月まで、被告の得た収入のうち被告自身の生活に要した費用を控除した残額と同年5月から毎月10万円を支給してもよい旨提案したが、原告は、給与の全額支給を要求して譲らなかつたため解決には至らなかつた。

11 被告の昭和54年10月から昭和56年4月までの手取俸給総額は約337万円、手取賞与総額は約133万円であり、これを月平均の収入に換算すると約24万7000円となる。

また、昭和56年4月分の被告の現金支給額は約20万7000円であり、昭和59年3月分の手取収入額は約25万円であるところ、昭和56年5月以降昭和59年2月まではおおむね給与及び賞与の2分の1を原告に渡していたが、同年3月からは原告の要求が執ようであるためやむなく同年6月までは給与及び賞与のほぼ全額を原告に渡さざるを得なかつた。

また、被告は、預金等合計約110万円を有していたが、原告に給与及び賞与のほぼ全額を渡さざるを得なくなつたことからこれらを自己の生活費に充てている。原告は、被告には約1000万円の預貯金がある旨主張するがこれを認めるに足る証拠はない。

12 現在では、原・被告とも離婚を強く望み、前記子らは、いずれも原告の実家において原告の両親らとともに生活し、長女及び二女は私立小学校に通い、原告は無職のまま子らを監護・養育している。

以上の事実が認められ、原・被告各本人尋問の結果中右認定に反する部分及び甲第2号証、第4号証中これに反する記載部分は、これをにわかに採用し難い。

二 まず、原・被告とも民法770条1項5号に基づく離婚請求をしているので、この点について判断するに、前記認定した事実によれば、本件婚姻関係は、すでに回復し難いほどに破綻しているものと認められる。

しかして、原告の主張にかかる被告の性的不能及びこれを隠そうとする被告の態度といつた点もこれを認めることは困難であり、また、その他原告の主張にかかる離婚原因事実も専らに被告にその責任があるとは言い難いところであつて、結局本件婚姻関係の破綻の原因の大半は、原告の不可解な言動、被告に対する一方的な拒否的態度及び慎みを欠いた言動にあると言わざるを得ない。そうだとすれば、原告の本訴離婚請求は有責配偶者からの離婚請求として排斥を免れないが、被告の反訴離婚請求は正当として認容すべきである。

なお、前記子らの親権者の指定について考察するに、前記子らは、昭和54年9月以来今日まですでに5年余原告のもとにあつて監護養育されていること、これを被告のもとに監護養育を委ねる場合は、当面は、第三者を雇つて日中の面倒をみてもらわなければならないこと、また、環境の激変によつて少なからず子らに心理的動揺を与えるものとみられこれを無視できないことその他本件にあらわれた諸般の事情を考慮すると、子どもら3名の親権者としては、原告と定めることが相当と認められる。なお、現在、原告は、かたくなに前記子らの状況を被告に明らかにしようとせず、父たる被告との面会もこれを拒んでいるようであるが、かかる事態は可及的速やかに解消されることが望まれる。

三 本件婚姻関係は、主として原告の責任によつて破綻したものであることは、前記一で認定したとおりであるから、原告の慰藉料請求は失当として棄却されるべきであるが、原告は被告に対し、被告の被つた精神的苦痛を慰藉すべき義務があるといわなければならないところ、被告において、昭和54年10月から昭和56年4月まで一切生活費を送らなかつたことが増々原告の感情を刺激し、事態を深刻にしていつたものとも言うことができ、本件婚姻の破綻につき、必ずしも原告のみを非難することができない部分もあること、被告は公務員として勤務し、離婚後の生活は一応安定している反面、原告は、今後も3児をかかえて生活していかねばならず、その経済的基盤も不安な面があること、現在では被告は離婚を強く望んでいることその他諸般の事情を考慮すれば、被告の受けた精神的苦痛は、離婚が認容されることによつて十分慰藉されるものと認められ、当裁判所はあえて原告に対し、慰藉料の支払を命じないこととする。

四 次に、原告は、相当の財産分与を求めているので検討するに、前記認定事実によれば、被告には、前記約110万円の預金(これも現在では被告において生活費に費消しているため残高は明らかでない)のほかみるべき財産はないところ、前記のとおり、昭和54年10月から昭和56年4月まで原告及び3人の子どもらの生活費を全く支給しなかつたこと、その後は原告において被告の職場に出向き給与及び賞与の約2分の1相当を受領し、昭和59年3月ころからはこれらのほぼ全額を受領するにいたつたこと、更に、原告は今後前記3児をかかえ生活していかなければならないこと、右昭和54年10月から昭和56年4月までの被告の婚姻費用分担額をこの間の被告の平均月収24万7000円を基礎としていわゆる労研方式によつて算出すると約290万円になること、その他本件にあらわれた諸般の事情を考慮すると被告が原告に対し離婚に伴う財産分与として分与すべき額は金350万円とするのが相当である。

五 よつて、原告の本訴離婚請求及び慰藉料請求は理由がないのでいずれもこれを棄却し、被告の反訴離婚請求は正当として認容し、反訴慰藉料請求はこれを失当として棄却することとし、未成年の子3名の親権者はいずれも原告と定めることとし、財産分与の申立については被告が原告に対し金350万円を支払うのを相当とし、訴訟費用の負担につき民訴法89条、92条本文をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

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